2010年12月25日土曜日

人はいかにして神を認識するのか(トマス・アクィナス篇)

トマス・アクィナスには他の著名なスコラ哲学者とは異なる特徴がある。いわゆるスコラ哲学の論法は現代の分析哲学と同じで論理的な論証に多くを負っているが、それに比して、トマスは言語哲学的な側面が強く日常言語学派に考え方が近いところがある。存在の類比説はその典型的な例だ。被造物に対する「物がある」と創造者に対する「神がある」とでは「ある」の意味が異なるという考え方は、「体がある」と「心がある」では「ある」の意味が違うとするギルバート・ライルの考えとどことなく似ている。これは日常的な言語の分析から導かれるものであり、その点では常識を擁護するものである。普通に考えれば物と神が同じように存在すると考えるのは不自然だ。アクィナスは常識と信仰を同時に擁護する道を選ぶ。

確かに「ある」は多義的に使われるが、それは「はし」が橋や箸を意味するような単なる同名多義ではない。「ある」の表面的な多義性にも関わらずそこには共通性がある。「物がある」と「神がある」において存在は類比(アナロジー)的に語られる。ならば(「ある」の語りが似てるだけで)人は物は認識できるが神は認識できないのか。被造物の存在は神によって存在させられる(存在を分有する)のに対して、神はそれ自身によって存在する。被造物において(感覚できる)偶有性は(感覚できない)実体に依存することで存在しているのだが、人は偶有性の存在を認識することによって実体の存在を(類比的に)認識する。同じように、人は被造物の存在を認識することによって神の存在を(類比的に)認識できるのだ。こうして常識を擁護しながら議論を進めるトマスに比べるとドゥンスの議論は短絡的にさえ見える。

しかし、トマスは神と世界を同一視する汎神論者ではない(だったら異端である)のだから、「世界を認識すること=神を認識すること」ではない。ならばドゥンスとは異なりトマスは神の自然的な認識を否定していることにもなってしまうのか。しかし、だとしたら存在の類比説を擁護したのは何のためだったのだろうか。存在の類比説を前提にすると、被造物において成立する「何である」かは神においては適用できない。地上の我々は神に関して「何ではない」と否定的な述定によってしか認識できない。こうした神の否定的述定を行なう否定神学に対して、神の肯定的述定を可能にするのが超越的カテゴリーである。カテゴリー(例えば時間や場所や性質)は被造物に適用される存在論的な分類であるのに対して、神はそうした存在論的なカテゴリーを越えている。超越的カテゴリーとしては「一」「真」「善」がある。ここでの「一」は数えられる一とは全く異なるが、同じことは他の超越的カテゴリーにも言える(ちなみに「善」とは日本語の含意と違って目的に適うの意を持つ)。神とは一であり真であり善である。ただし、神の存在が物の存在とは類比的に異なるように、超越的カテゴリーにおいても同じことが言えるはずだ。

否定神学と超越的カテゴリーは神が「何である」かに関して矛盾していることを語っているようにも見える。だが、これらの議論が向かっているのは後にクザーヌスが無限論によって目指しているのと同じ方向であるように思える。その点を考慮すると、トマス・アクィナスが所属していたドミニコ会から異端的とされるエックハルトやブルーノが現れたのは実は故なきことではないかもしれない。

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