認識論(どのように命題が真であると分かるのか)に関しては大きく二つの立場がある。その一つは対応説であり、語と物に対応関係があればその命題は真であるとされる。これは、それが正しいかどうかは見れば分かる!という常識的な直観に合致した分かりやすい考え方であり、有名なところでは論理実証主義者はこの考え方を採用していた。しかし、この考え方には大きな欠点があり、それはセラーズによって所与の神話だとして批判されている。つまり、外から与えられた感覚だけによっては命題が真であるかは分かり得ないという。例えば「これは赤い」という命題が真であるかどうかは、示された対象を目で確かめれば済む話のはずである。だがそうはいかない。その色が赤であるかどうかというのは感覚からだけでは確かめようがない。判断する側に「赤とはどんな色であるか」という赤に関する概念がなければ、それが赤であることを確かめることはできない。論理実証主義者はすべての命題を感覚だけによって確かめられる観察命題に還元しようとしたのだが、それだけでは無理があることが分かった。対応説を素朴に信じる人は今ではほとんどいないが、特定の前提のもとでの対応関係を調べる領域として(モデル論的な)形而上学が発展しているが、そこで議論されている真理発生対象(true maker)は対応説の形而上学的なヴァージョンの議論とも言える。
もう一つの立場は整合説であり、これはある命題の真偽は他の真なる命題との整合性によって定まるという考え方だ。これはシャーロック・ホームズのような推理を思い出してもらうと分りやすい。例えば、入ってきた客の服がびしょ濡れで足元が泥だらけで窓の外も暗いことから外は雨が降っていると判断するようなものだ。整合説に対する典型的な批判は、命題間の整合性さえあればどんな荒唐無稽なお話でも真になってしまうという批判だ。この批判は半ば正しく半ば間違っている。確かに他の命題との整合性さえ取れていればどんなことでも真になりうる。しかし、これは整合性という制約があるのだから、どんな命題でも真であると信じて構わないという意味ではない。しかしさらなる問題は整合性をとるべき命題が他にないときはどうすればよいのかということだ。始めの例で言うと「外で雨が降っている」ことは他の命題との整合性から導くことができるが、「服がびしょ濡れ」であること自体はそうではない。ここで実は整合説は裏口から対応説を連れこんでいないといけないことになり、結局は基礎づけ主義(観察命題を基礎に置いた説)と変わりがなくなってしまう。
これを解決するのがタルスキやクワインの考え方を援用したデイヴィドソンの理論だ。つまり、ある程度の命題の真偽は他者からの同意によって定まり、残りの命題の真偽はそれらとの合理的な整合性によって定まるとした。こうして他者からの判断を導入することで整合説から対応説の影は完全に追い払われたのだ。だから、デイビッドソンに関して語と物との関係を問う外延問題への解答を探そうとする論者がたまにいるが、そもそもにおいてデイヴィドソンにおいて外延問題なんて存在しない(でなければ比喩論文その他の論文を一貫して理解できない)。おそらく整合性以外にも認識者の中に真偽の判断の基準はあるのだろうが、それについてデイヴィドソンは問わない。だから比喩だろうが言い間違いだろうが話が通じてしまえば真偽が定まる。デイヴィドソンは純粋に言葉が通じるかどうかだけを見ているのであって、こうなると整合説はローティのいう純粋な言語哲学への道をまっしぐらとなるのも当然なことだ。
デイヴィドソンの理論のすごいところは外延問題(または感覚問題)を一切放棄したところにあるのだが、この点こそがマクダウェルが経験概念についてデイヴィドソンと見解の分かれるところである。マクダウェルは、一方でセラーズの所与の神話批判を受け入れるが、他方でデイヴィドソンのように知覚できる経験を放棄することを拒否する。対応説のように感覚と概念を分けておきながら(概念なしで済ませられるかのように)混同することにも批判的だが、整合説のように感覚を捨て去って概念だけを残すことにも批判的だ。その結果としてマクダウェルが採用するのが知覚の概念的内容に関する説である。つまり知覚において感覚と概念は常に一緒であり分かつことはできないとした。この考え方の源はヘーゲルの「精神現象学」の意識の部にあると思われる。気づいたときには私たちは物事をすべからく概念として見ているのであり、私たちが物事を見ることは(概念の体系としての)世界観を見ることと同じ事であり、見ている世界観(概念の体系)はそれがすべてでありその外側などない(観念論!)。ヘーゲル主義者にとって知覚と思考は同等の扱いを受けることになるので、所与の神話は存在しない(すべての知覚経験は概念的内容を持っているのだから)。概念論者マクダウェルが強調するのは、概念は言語に関わる能力と結びついていることであり、言語によって概念化された知覚と思考は一つに結びついているのであり、その知覚と思考の結びついた全体が一つの世界観(理由の論理空間)と化しているのだ。
マクダウェル説の特徴を見るには同じく知覚の概念説を採用しているノエ説と比較すると分かりやすい。ノエはマクダウェルと同じ知覚概念説をとっているが、同時にドレイファスの身体論からも影響を受けていて、その結果として観念論を放棄せざるを得ないが、その帰結は単なるイイトコ獲りの一貫しない説となってしまっている。マクダウェルの知覚概念説によれば言語を持たない者は(人間のような)経験を持たないことになり、つまりは言語を使えない動物や赤ん坊は(人間のような)経験を持っていないことになる。人は言語を獲得することで反省する能力を身につけるが、反省ができなければ経験を持つ事もできない。確かにこの考え方には批判がありノエはこれを解消しようとしているが、ここにノエのご都合主義がある。マクダウェルが概念的能力(概念によって何かを行なう能力)によって経験の所有を切り分けているのに、ノエの考え方を採用すると人間も動物も概念を持っていることになるが、誰が何ができても概念が関わっていると言えるなら、概念の意味が広すぎて元々の意義が失われてしまう(ミジンコは概念を持っているのだろうか?)。マクダウェルとは異なり、ノエは言語に基準をおかないので、概念が含まれる範囲がいくらでも広くなってしまうのは明らかに欠点だ。
別の所でノエは感覚−運動的能力を概念的能力と同化してしまっているのも同じ傾向を示している。しかし、これでは概念によってて区別することと条件反射によって区別することの違いがなくなってしまう。ノエは動物や赤ん坊に関しては原概念なるものを持ち出しているが、引用元のパトナムは知覚概念説に対して中立的な立場からこの言葉を提唱しているので解決にはなっていない(概念的と原概念的の区別をどうつければいいんだ?)。知覚概念説への批判として、私たちは無限とも言えるほど豊かな色合いを知覚できるがその色合いのすべてを表わせるほどの概念はない、という批判がある。これに対しては、すべての色合いに対応する色名がある必要はなく、単にあの色とかこの色とか言うだけでも概念を行使していることになるとの(マクダウェルによる)解答がある。「この色とあの色は同じ色だ」と判断できることを考えるとこれぐらいは認めてもいいかもしれない。しかしあれとかこれとかさえ言えない場合にさえ当てはめてしまったら、文字通り何でもありになって反省的に反応しようが反射的に反応しようが概念的能力を行使できることになってしまう。こんなにもあれもこれもに概念を適用できるのなら、概念という言葉には意義がなくなってしまうように思う(少なくともマクダウェルと比べると相当に損なわれている)。ノエは様々な哲学説や常識的な直観からいいとこだけを継ぎはぎすることによって却ってダメにしてしまっている感がいなめない。
ちなみに、パトナムはマクダウェルから観念論を拭い取った上で常識的実在論(だいたいにおいて私たちの考えている通りに物事は存在する)を擁護しようとしているが、ウィリアム・ジェイムスと同じくマクダウェルは観念論を採用することによって常識的実在論を実現しているのであり、パトナムは観念論を偏見によって嫌いすぎている。マクダウェルの言うように、観念論は徹底させると実在論と区別がつかなくなるのであり、観念論を恐れる必要などない。
<付記>
後から調べてみたら、私がこの記事で書いたのと同じような内容が書かれている英語論文を見つけたので驚いた。これじゃまるで自分がその論文を見てこの記事を書いたかのようじゃないか。まぁ、ヘーゲルに関する記述はその論文の方が詳しいが(もちろんノエ批判もない)。てか、その論文はマクダウェルの解説よりもブランダムの解説の方が断トツに分量多いぞ。
The Analytic Neo-Hegelianism of John McDowell & Robert Brandom(PDF) http://www-personal.arts.usyd.edu.au/paureddi/Redding-Analytic_Hegelianism.pdf
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