2010年11月22日月曜日

最近は世界観に興味が移っている

ディルタイの世界観学(世界観と精神の関係を問う)と無関係ではないが、特定の具体的な世界観を問う(それは人文学者や社会科学の仕事だ)というよりも、そもそも世界観とは何かを問うところから始めなければならない。
科学的世界観は厳密さを採用するために全体性を犠牲にせざるをえない(限定された妥当性しか持たない)が、日常的世界観では全体性を獲得するために現実への妥当性が低くなることはよくあることだ。これらは科学的世界観と日常的世界観の目的が違うからであって、必ずしも欠点ではない。
日常的世界観が全体性を必要とするのはそれが生き方と結びついているためであり、科学的な考え方を日常的世界観に転用することは、真なることを求める科学的世界観とは区別すべきである。科学的世界観は真なる知識が倫理や宗教と分離し始めた近代による発明であり、人生のそれとの調停はむしろ課題である
西洋の哲学説は、古代では倫理と結びつき、中世では宗教と結びついていた。ストア派であれエピクロス派であれピュロン主義であれ、その自然学説は倫理(生き方)と結びついていた。中世では(神学ほどでないにしても)哲学は護教論的な要素も持っていた。倫理学が独立したのは近代以降のことだ
インドの哲学は特に知識論(論理学含む)と自我論(世界論含む)が重要視されていたが、それは宗教的な解脱と結びついていたからだ。真理を知ることや自我を修めることが解脱につながる。中観派の懐疑主義(ピュロン)的な議論も解脱と結びついている。こうした点は西洋の古代哲学に近く、近代的な真理概念をそのまま当てはめるべきでない(フーコーも参照)

世界観といっても、ディルタイが言っているような(特にテキストで)表現された世界観もあるが、それとは別に、どんな人もすべからく持ってしまうような意味での世界観もあって、そっちは私の元々の関心に近い。前者(人文学的世界観?)は全面的に(主に文字で)表現されているがそれが現実に妥当するかは別の問題だ(例えば神話や宗教は世界観だが現実に隈なく当てはまるのか?)。後者はその人が表現している世界観が問題になりそうだが、そもそもその人の言ってる事とやってる事とが合っていない場合もあって、そこまで考えないと前者と区別がつかない。その人が言ってる事とやっている事とが合っていなければ、その人は非合理であるとか不誠実であるとか信用できないとか狂人であるとされる(で以後そのような目で見られる)。その点で、人は言ってる事とやってる事がそれほどかけ離れないように世界観を持つことになる。ただし、意識して言ってる事とやってる事を完全に一貫させることができることを意味している訳ではない(そんな人がいたらむしろ狂っている)。言ってる事が現実に妥当するかどうかは、それが現実と対応しているか(対応説)やそれが行動の指針になっているか(規範説)が問題になる。言ってる事が首尾一貫しているだけ(整合説)では単なるお話でしかない(てかこれは世界観の話で認識論の話じゃないっての)。

2010年11月10日水曜日

学生時代にまずは教育社会学に夢中になり、認知科学の発見はその後

部屋の押入れを漁っていたら、学生時代に教育系の研究会で読んだ論文のコピー(エスノメソドロジーの論文)が出てきて、目についたその引用部分が今読むとかえって面白かったので以下に引用する。

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我々の課題は、推論を実行できる機械、そして私が主張したような強い意味で推論を実行できる機械を単に作り出そうとすることにあるのではない。社会化を記述することに興味を持っている社会学の大部分は、どのように人間は、以下のような意味で他者に理解可能なように自らの活動を生み出すように形成されるのかという点にある。つまり、どのようにして彼が、これら一連の事態を推論する機械が彼のしようとすることを発見できるような方法で行動するようになるのかということである(Sacks 1985, p.20)
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→清矢良祟「社会化、言説、文化」教育社会学研究第54集(1994)のp.11より孫引き

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ある文化のどのような成員も、幼児期のころから文化の非常に狭い部分を、そして恐らく行き当たりばったりに体験しているように思われるのに、(彼らがたまたま持つことになった両親や、彼らがたまたま体験すること、あるいは、たまたま彼らに向けられることになる発話に含まれている語彙など)、他の成員と多くの点でほとんど同じように振る舞う人に成長し、どのような成員とも関わりが持てるようになるのである。成員が社会の中でやっていける人間に成長することを確実にするために、彼らに対して、経験の適切なサンプル構成を提供することが重要なことであるとすれば、一つの文化は、それを経験する成員にとってそのように配置されているとしてもおかしくはないだろう。そしてもちろん、それを研究する場合も同じ資源を対象とすることになる。だから、どのような人、そしてどのような場所であっても、こつこつとたたいて、そこには入り込んでみよ。そうすれば同じ文化的秩序をみることができるだろう、ということになる(Sacks 1984, p.22)
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→清矢良祟「社会化、言説、文化」教育社会学研究第54集(1994)のp.19-20より孫引き

前半の引用部分からはサッチマンと違って機械に対してそれほど否定的でないところが興味深い。たまに見られるエスノメソドロジーは反認知科学みたいな考えは偏見だということがこれを読むとよく分かる。サックスが心を推測する推論機械だけでなく、逆に心を推論させる活動機械を提案しているのは本当に面白い。それから、サッチマンが批判したのは主に強い人工知能であって、その後に現れたコネクショニズムやサブサンプションには実は好意的であるのだが、そういう点からも後半の引用部分は興味深い。この短い引用部分だけでも、文化の学習の点からも環境としての文化の点からも読めてしまうところは素晴らしい。
これからは様々な意味での生物学化(20世紀初頭から始まった物理学化と比較せよ)はもはや避けられないだろうけど、生物学者の社会性概念の貧しさにうんざりする時がある一方で、社会科学者の生命科学への認識の甘さ(過剰な期待と拒否)にあきれることもある中で、こういう文章を読むとちょっとほっとする(一時的な気休めなんだろうけど…)。

2010年11月7日日曜日

前口上

ここは、元々は認知科学について英語で記事を書こうとして開設したブログです。

日本でのクオリアに関する記事を出したはしたのですが、自分の英作文力のなさに打ちのめされて放置状態でした。一般向けの真面目な記事を書く気は既に失せたの(ほか諸々の事情)ではてなのブログは更新する気も起きない。実は単なるアイデアやメモの文章をはてなハイクに出していたのですが、この程度ならどっかのブログで出しても構わんだろうと思ったのだが、アイデアやメモを出すだけなので何かとウザイはてなでは嫌だなと考えあぐねていたところ、思い出したのがここ。とはいえ、古い記事は恥ずかしいのですがとりあえず残しておきます(英語の間違いを懸命に突っ込んだりはしないように!)。

そういう訳で、ここはどうでもいい文章を出す場としました。書いてあることはそれほど信用しないでください。出す記事は一般向けでも専門向けでもなく所詮は自分向けです。コメントやトラックバックもあまり気にしないようにしたいので、応えがなくても気にしないように(どうしてもという方はツイッターなどからどうぞ)。あと、以前にはてなハイクに出した文章を出す可能性もあります。

ちなみに、どうせ書くテーマはほとんど認知科学や哲学についてになるだろうから、ブログのタイトルは元々の英語のタイトルの考える事に哲学を加えただけにしたが、でもまぁ、その辺は適当に…