2010年11月10日水曜日

学生時代にまずは教育社会学に夢中になり、認知科学の発見はその後

部屋の押入れを漁っていたら、学生時代に教育系の研究会で読んだ論文のコピー(エスノメソドロジーの論文)が出てきて、目についたその引用部分が今読むとかえって面白かったので以下に引用する。

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我々の課題は、推論を実行できる機械、そして私が主張したような強い意味で推論を実行できる機械を単に作り出そうとすることにあるのではない。社会化を記述することに興味を持っている社会学の大部分は、どのように人間は、以下のような意味で他者に理解可能なように自らの活動を生み出すように形成されるのかという点にある。つまり、どのようにして彼が、これら一連の事態を推論する機械が彼のしようとすることを発見できるような方法で行動するようになるのかということである(Sacks 1985, p.20)
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→清矢良祟「社会化、言説、文化」教育社会学研究第54集(1994)のp.11より孫引き

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ある文化のどのような成員も、幼児期のころから文化の非常に狭い部分を、そして恐らく行き当たりばったりに体験しているように思われるのに、(彼らがたまたま持つことになった両親や、彼らがたまたま体験すること、あるいは、たまたま彼らに向けられることになる発話に含まれている語彙など)、他の成員と多くの点でほとんど同じように振る舞う人に成長し、どのような成員とも関わりが持てるようになるのである。成員が社会の中でやっていける人間に成長することを確実にするために、彼らに対して、経験の適切なサンプル構成を提供することが重要なことであるとすれば、一つの文化は、それを経験する成員にとってそのように配置されているとしてもおかしくはないだろう。そしてもちろん、それを研究する場合も同じ資源を対象とすることになる。だから、どのような人、そしてどのような場所であっても、こつこつとたたいて、そこには入り込んでみよ。そうすれば同じ文化的秩序をみることができるだろう、ということになる(Sacks 1984, p.22)
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→清矢良祟「社会化、言説、文化」教育社会学研究第54集(1994)のp.19-20より孫引き

前半の引用部分からはサッチマンと違って機械に対してそれほど否定的でないところが興味深い。たまに見られるエスノメソドロジーは反認知科学みたいな考えは偏見だということがこれを読むとよく分かる。サックスが心を推測する推論機械だけでなく、逆に心を推論させる活動機械を提案しているのは本当に面白い。それから、サッチマンが批判したのは主に強い人工知能であって、その後に現れたコネクショニズムやサブサンプションには実は好意的であるのだが、そういう点からも後半の引用部分は興味深い。この短い引用部分だけでも、文化の学習の点からも環境としての文化の点からも読めてしまうところは素晴らしい。
これからは様々な意味での生物学化(20世紀初頭から始まった物理学化と比較せよ)はもはや避けられないだろうけど、生物学者の社会性概念の貧しさにうんざりする時がある一方で、社会科学者の生命科学への認識の甘さ(過剰な期待と拒否)にあきれることもある中で、こういう文章を読むとちょっとほっとする(一時的な気休めなんだろうけど…)。

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