ディルタイの世界観学(世界観と精神の関係を問う)と無関係ではないが、特定の具体的な世界観を問う(それは人文学者や社会科学の仕事だ)というよりも、そもそも世界観とは何かを問うところから始めなければならない。
科学的世界観は厳密さを採用するために全体性を犠牲にせざるをえない(限定された妥当性しか持たない)が、日常的世界観では全体性を獲得するために現実への妥当性が低くなることはよくあることだ。これらは科学的世界観と日常的世界観の目的が違うからであって、必ずしも欠点ではない。
日常的世界観が全体性を必要とするのはそれが生き方と結びついているためであり、科学的な考え方を日常的世界観に転用することは、真なることを求める科学的世界観とは区別すべきである。科学的世界観は真なる知識が倫理や宗教と分離し始めた近代による発明であり、人生のそれとの調停はむしろ課題である
西洋の哲学説は、古代では倫理と結びつき、中世では宗教と結びついていた。ストア派であれエピクロス派であれピュロン主義であれ、その自然学説は倫理(生き方)と結びついていた。中世では(神学ほどでないにしても)哲学は護教論的な要素も持っていた。倫理学が独立したのは近代以降のことだ
インドの哲学は特に知識論(論理学含む)と自我論(世界論含む)が重要視されていたが、それは宗教的な解脱と結びついていたからだ。真理を知ることや自我を修めることが解脱につながる。中観派の懐疑主義(ピュロン)的な議論も解脱と結びついている。こうした点は西洋の古代哲学に近く、近代的な真理概念をそのまま当てはめるべきでない(フーコーも参照)
世界観といっても、ディルタイが言っているような(特にテキストで)表現された世界観もあるが、それとは別に、どんな人もすべからく持ってしまうような意味での世界観もあって、そっちは私の元々の関心に近い。前者(人文学的世界観?)は全面的に(主に文字で)表現されているがそれが現実に妥当するかは別の問題だ(例えば神話や宗教は世界観だが現実に隈なく当てはまるのか?)。後者はその人が表現している世界観が問題になりそうだが、そもそもその人の言ってる事とやってる事とが合っていない場合もあって、そこまで考えないと前者と区別がつかない。その人が言ってる事とやっている事とが合っていなければ、その人は非合理であるとか不誠実であるとか信用できないとか狂人であるとされる(で以後そのような目で見られる)。その点で、人は言ってる事とやってる事がそれほどかけ離れないように世界観を持つことになる。ただし、意識して言ってる事とやってる事を完全に一貫させることができることを意味している訳ではない(そんな人がいたらむしろ狂っている)。言ってる事が現実に妥当するかどうかは、それが現実と対応しているか(対応説)やそれが行動の指針になっているか(規範説)が問題になる。言ってる事が首尾一貫しているだけ(整合説)では単なるお話でしかない(てかこれは世界観の話で認識論の話じゃないっての)。
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