2010年12月1日水曜日

分析哲学的な形而上学と大陸哲学的な形而上学について考える

フッサールによる静態的現象学と発生的現象学の分類はとても便利だ。分析哲学の形而上学の分析は静態的現象学と同じであり、大陸哲学の形而上学の分析は発生的現象学と同じだ。
大陸哲学における発生的現象学的な傾向ってのは深淵さと不毛さが紙一重で、私としては素直には支持しがたい。例えば他者論や対話論ってのはこの方面と議論構成が同じなのだが、日本でのこのタイプの議論には安易なものも多く、他者や対話なら何でもいいのかよバ〜カ!と言いたくなるぐらいに何も考えてない論もよく見る(二人以上で話してるからダイアローグだ万歳!って何人で話そうが一定の枠組みを出ない予定調和な対話だったらそんなの独り言と変わんねぇよ。後はデヴイヴィドソンぐらい読んで勉強しろ!としか言えない)。そこまで程度が低くないにしても、それでも日本で見かけるそうした議論は物足りなさを感じる。私の印象ではその原因は、そうした議論の根底にある考え方である啓示が理解されていないことにあると思う。「対話の哲学」は対話論や他者論としてはよくできた著作ではあるけれど、どことなく不満を感じてしまう。その原因は(コーヘンが言及しているにも関わらず)啓示の側面を追い出してしまおうとしているからだと思う(特に最終章でユダヤ性を薄めようとしている点で顕著)。対話論や他者論では啓示をもたらす神が重要な役割を果たしているのだけど、その視点が欠落してしまいがちだ。(ハイデガーから現代思想の流れに発生的現象学的な傾向があるが、「ハイデガー『存在と時間』の構築」で日本的自然観に近づけて論じている辺りを見ても、日本では啓示の考えは考慮されないのだなと感じる。否定神学と啓示の関連に関してはここではパス)。対話論や他者論は内在と超越が混在しあったところに深淵さ(と不毛さ)があるのに、日本ではそこにさえたどり着けない(着ける背景がない)のだから、現代思想なんて単なる無駄な贅沢品だなと思う。発生的現象学にはこうした現代思想寄りの話だけでなく、認知科学寄りの話(身体論や生活世界論)もあるのだが、それはここではしない。
静態的現象学ってのはスコラ哲学的な議論であり、まさに分析的形而上学とぴったり話が重なる。実際に「論理学研究」のスペキエスやメレオロジーなど、分析哲学で言及される議論も多い。分析哲学における普遍論争についてははてなハイクで既に書いたので省略する(いずれ記事にまとめるかも)として、ここでは分析的形而上学の発生的現象学との関係だけに触れる。分析的形而上学はスコラ哲学と同じく、テクニカルな議論が多いせいか(議論が生産的な反面で)浅く見られやすく、実際に分析的形而上学は表面的な理解しかしていない人もよく見る。大陸哲学と違って深淵さが表に現れるのでなく裏に隠れているせいだが、その説明も省く(これもはてなハイクで触れたことがあるが、スコラ哲学にとっての新プラトン主義の位置と似ている)。しかし、実は分析的形而上学の中でも特に反実在論は発生的現象学の考え方に近いところにいる。発生的現象学の方面ではフッサールやハイデガーを見れば分かるが、時間論が重要な議論である。その点から考えると、グッドマンの投射論やダメットの過去論など(意味の発生の視点から)発生的現象学と関連付けることもできるだろう(ちなみに解釈学や解釈主義は分析系でも大陸系でも独立して現れたことも重要だが、この点はまだ話が整理できてないのでパスしておくが、それを関連付ける鍵がありそうだ)。
とはいえ、静態的現象学と発生的現象学の関係は議論されることがほとんどないし、実のところ片方しか理解できない人の方が多い(類比的には、カントとヘーゲルとを両方とも理解できる人がめったにいないことと似ている。ハイデガーとカルナップが互いに相手を形而上学呼ばわりの悪口を言い合っていたことを思い出しても良い。インド哲学での知識論と自我論の対立も似ているかもしれない)。だとすれば、それらを共に扱えたフッサールがいかにすごい哲学者だったのかということを実感しない訳にもいかない。

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