中世哲学において直観認識とは感覚によって認識することであり抽象認識とは知性によって認識することである。聖書によれば人(被造的知性)は死後に神の直視(至福直観)ができるはずだが、死後は肉体が失われるので感覚によって神をそこにあるものとして認識すること(地上的な直観認識)はできない。だからといって抽象認識によって認識できるとしたら、知性は存在しないものを認識することができるので、そこには存在しない神を認識できるという議論になっておかしなことになる(死後なのに神に会えないのかよ!)。よって、ドゥンス・スコトゥスはトマス説である「感覚は個物を認識し、知性は普遍を認識する」という考え方を批判し、人は死後に神をそこにあるものとして(つまりは直観認識によって)認識できるとした(神は地上的な個物と一緒じゃねぇ!という突っ込みはとりあえず脇に置く)。このような形での神認識(至福直観)とは超自然的な認識であり、神による意志によって起こる認識という意味で意志的な認識とも呼ばれる(至福認識が死後だけに可能なのか?生前に神秘体験を介してそのような体験が可能か?はここでは問わない)。
これに対して、地上で人が知性によって神を認識することが可能かは神の自然的認識に関する問題である。人が知ることができるのが単に被造物だけであったら神を認識することは不可能である。しかし、もし神が被造物と共通する存在であったのならば、人は神を(自然を通して)知ることができることになる。トマス・アクィナスによれば、「神がある」では「物がある」における「ある」がアナロジーとして使われているのであって、「ある」(存在)の意味こはの二つの命題では異なる。これが有名なトマスの存在の類比説であるが、これでは地上で人は(自然的には)神について知ることが全くできないことになる。よって、ドゥンス・スコトゥスはこの説を批判して存在の一義説を提出した。被造物は感覚できて神は感覚できないのに神を認識することはできるはずという議論を展開する上で、ドゥンスはアリストテレスによる偶有性と実体の対比を用いている(ちなみにここでの偶有性は英語でaccidentの定訳でありcontingencyとは異なる)。偶有性とは物が偶然に持っている性質であり感覚を介して知ることができる。例えば髪の毛にとって黒であるか赤であるか白であるかはたまたまそうであるだけの偶有性である(ちなみにこれが普遍の理解に関わる)。実体とはそのような変化を被らないものであり、直接に知ることができない点でカントの物自体に似ている。しかし、ドゥンスの影響を受けたパースがカントの物自体を絶対に知ることができない点で批判しているように、絶対に知ることができない実体を想定することには問題がある。だからドゥンスは偶有性と実体は共通する存在を持っていることによってどちらも知ることができるとした。この議論は被造物と神にも当てはまり、感覚できる偶有性や被造物を介して感覚できない実体や神を知ることできるという議論構成になっている(私にもよく分からないので、実体も被造物じゃねぇのかよ!という質問は受け付けない)。
2010年12月18日土曜日
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