2010年12月8日水曜日

近代社会のシステムを進化システムとのアナロジーで考える(途中経過)

近代社会のシステムを進化システムとのアナロジーで考えている(てか途中まで論考を書いた)のだけれど、哲学や思想を参照して経済・科学・法律・政治が候補として挙げてみたが、考えいくうちに政治にこれを当てはめるのに困難があるような気がしてきた(それに付随して法的システムは司法に限定すべきか立法まで含むべきかの問題も浮上してきた。ちなみに想定される参照文献はワルラスやポパーやハートやロールズなどが代表で、あとの関連文献はそこから芋づる的に探れるはず)。
淘汰に当たるのが科学での相互評価とか経済での売買競争とか法律での裁判などで、それは(経済学におけるように)均衡システムとして表現できる。だが、現実には均衡システムに様々な制約が加わり、一般的には物理的制約やシステム間の制約関係(例えば科学における資金)があるが、具体的には例えば経済システムにおける情報の非対称性が挙げられる。そうした制約によって均衡へと至る道筋も変わっていく。進化には遺伝子のような伝達と淘汰の単位(メディア)が必要で、遺伝子型が表現型となって淘汰の対象となる(伝達と淘汰の単位についてはベイトソン「精神と自然」第六章も参照)。科学では真理、経済では貨幣、法律では合法性によって、そのシステムでの淘汰対象が残ったり除外されたりする。
細かい考察はまだまだこれからだが、大雑把には進化システムとの比較による考察は役に立ちそうな気がするが、政治に関しては当初の考えていたよりもそれが難しいと思うようになってきた(政治を広くとるべきか狭くとるべきかさえよく分からない)。例えば、政治が各種の社会的システムに強い影響(制約)を与えることはできるがそれでもそれらのシステムの自律性(伝達と淘汰の単位を関連している)は守られる。だが、政治システムには他の社会的システムと比類できるような自律性を持っているのかは考えてるとよく分からないし、かといって他のあまり自律的でないシステム(例えば行政や教育)と同じとも思えない。
……考えている内によく分からなくなってきて記事として完結できないが、どうせメモ用ブログだから構わんな、別に。

ちなみに、途中まで書きかけて行き詰まったテキストがこちら。書いていること間の矛盾や非一貫性を調停なり修正なりできなかったので本来はボツであり、実際に書きかけの段落があるのだが、それを承知の上で読んでください。

没テキスト↓

社会的なシステムについて考える上で、生命的なシステムとのアナロジー(類似による比較)で考えると様々な整理がつく(ただしオートポーエーシス概念は曖昧なので用いない)。生命的なシステムには大きく分けて生物システムと進化システムがある(生態システムはこれらを結びつけるものだが話を簡単にするために無視する)。生物システムとは個々の生物の体を成り立たせているミクロなシステムであり、進化システムとは生物同士が関係しあっている自然淘汰が起こるマクロなシステムである。進化システムにとって生物システムは要素になっており、生物を成り立たせている遺伝子を進化が淘汰することになる(淘汰の単位の議論はとりあえず度外視するが、後の用語では遺伝子とはメディアである)。社会的システムもこれと同じような分け方ができる。例えばこの分類では、経済システムはマクロなシステムであり、個々の買い手や売り手はその要素としてのミクロなシステムである(経済学の用語におけるミクロ−マクロとは意味が異なるので注意)。しかし、この程度の分類法はよく見かけるものであり、社会的なシステムを考える上での出発点に立ったに過ぎない。
生命的なシステムの特徴は自律的であることである。自律的であるとはいかなることか。
社会的なシステムを自律性の点から眺めると、経済や政治や司法や科学がその候補としてあげられる(経済学はもとより政治哲学や法哲学や科学哲学を参照すべし)。家族や会社などの組織はそうしたマクロなシステムの要素である。マクロなソステムとされるもののすべてが自律的システムではない。ここでいう自律的システムの典型なモデルは進化システムである。自律的システムの特徴としては、開かれていること・要素の相互的な関係・淘汰による均衡状態への移行が挙げられる。開かれたシステムとはその要素が任意に入れ替わりうることである。進化システムではその要素である生物個体は淘汰と生殖によって随時入れ替わる。経済システムではその要素である経済主体(売り手や買い手)は淘汰や参入によって随時入れ替わりうる。もし要素が入れ替わりえないならば、そのシステムは閉じたものである(新しい売り手も買い手も現れないで、常に同じメンバーである)。
要素が相互的であるとは、要素間の関係が一方的な支配的関係だけではないことである。もし進化で一方的な支配的関係しかなかったら、強者が弱者を駆逐して強者だけになってしまうが、そうすると弱者を食料とする強者は生き延びることができなくなる。どんな経済主体も売り手にも買い手にもなりうるのであり、商品の売り手も資材の買い手であり、単なる消費者に見えても労働の売り手であったりする。
進化システムとは様々な生物が関係しあいなが(遺伝子の)伝達と淘汰が起きる過程である。経済システムは様々な経済主体が関係しあいながら(貨幣による)伝達と(市場による)淘汰が起きる過程である。伝達を媒介する遺伝子や貨幣はそのシステムのメディアであり、第三者的には遺伝子や貨幣の獲得がそのシステムの目的に見える(ただし目的をもった主体は必要なくて結果としてそう見えるだけでよい)。淘汰はパラダイムを維持するものも破壊するものもどちらもありうる。
科学システムには研究者間の相互評価の仕組みがあり、司法システムには法律家間の法解釈を巡る合法性の争いがあり、政治システムには…(??)
科学システムや司法システムには専門知識を持った人だけが正式に参加できる(ハードルが高い)仕組みがあるが、政治システムや経済システムにはそうした専門性…(ない?)
行政や教育は自律的システムではない。つまり、システムの内側で(相互的な評価による)淘汰が起こらない(起これない)のであり、これらのシステムの暴走はシステムの外側からしか止められない(ひどい教師や役人を外す自浄的な仕組みはない。ちなみに、教育は狭く学校で捉えてもダメだが、広くとろうすると単なる学習と同じになって広くなりすぎてしまう)。非人道的なひどい経営者は経済システムの側からは始めから淘汰の対象ではなく(そういうのは法的または政治的に何とかするしかない)、重要なのは淘汰の単位がないことである。淘汰の単位こそがシステムの自律性を成立させる。

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