2011年9月21日水曜日

マクダウェルと認識論に関する私論

認識論(どのように命題が真であると分かるのか)に関しては大きく二つの立場がある。その一つは対応説であり、語と物に対応関係があればその命題は真であるとされる。これは、それが正しいかどうかは見れば分かる!という常識的な直観に合致した分かりやすい考え方であり、有名なところでは論理実証主義者はこの考え方を採用していた。しかし、この考え方には大きな欠点があり、それはセラーズによって所与の神話だとして批判されている。つまり、外から与えられた感覚だけによっては命題が真であるかは分かり得ないという。例えば「これは赤い」という命題が真であるかどうかは、示された対象を目で確かめれば済む話のはずである。だがそうはいかない。その色が赤であるかどうかというのは感覚からだけでは確かめようがない。判断する側に「赤とはどんな色であるか」という赤に関する概念がなければ、それが赤であることを確かめることはできない。論理実証主義者はすべての命題を感覚だけによって確かめられる観察命題に還元しようとしたのだが、それだけでは無理があることが分かった。対応説を素朴に信じる人は今ではほとんどいないが、特定の前提のもとでの対応関係を調べる領域として(モデル論的な)形而上学が発展しているが、そこで議論されている真理発生対象(true maker)は対応説の形而上学的なヴァージョンの議論とも言える。

もう一つの立場は整合説であり、これはある命題の真偽は他の真なる命題との整合性によって定まるという考え方だ。これはシャーロック・ホームズのような推理を思い出してもらうと分りやすい。例えば、入ってきた客の服がびしょ濡れで足元が泥だらけで窓の外も暗いことから外は雨が降っていると判断するようなものだ。整合説に対する典型的な批判は、命題間の整合性さえあればどんな荒唐無稽なお話でも真になってしまうという批判だ。この批判は半ば正しく半ば間違っている。確かに他の命題との整合性さえ取れていればどんなことでも真になりうる。しかし、これは整合性という制約があるのだから、どんな命題でも真であると信じて構わないという意味ではない。しかしさらなる問題は整合性をとるべき命題が他にないときはどうすればよいのかということだ。始めの例で言うと「外で雨が降っている」ことは他の命題との整合性から導くことができるが、「服がびしょ濡れ」であること自体はそうではない。ここで実は整合説は裏口から対応説を連れこんでいないといけないことになり、結局は基礎づけ主義(観察命題を基礎に置いた説)と変わりがなくなってしまう。

これを解決するのがタルスキやクワインの考え方を援用したデイヴィドソンの理論だ。つまり、ある程度の命題の真偽は他者からの同意によって定まり、残りの命題の真偽はそれらとの合理的な整合性によって定まるとした。こうして他者からの判断を導入することで整合説から対応説の影は完全に追い払われたのだ。だから、デイビッドソンに関して語と物との関係を問う外延問題への解答を探そうとする論者がたまにいるが、そもそもにおいてデイヴィドソンにおいて外延問題なんて存在しない(でなければ比喩論文その他の論文を一貫して理解できない)。おそらく整合性以外にも認識者の中に真偽の判断の基準はあるのだろうが、それについてデイヴィドソンは問わない。だから比喩だろうが言い間違いだろうが話が通じてしまえば真偽が定まる。デイヴィドソンは純粋に言葉が通じるかどうかだけを見ているのであって、こうなると整合説はローティのいう純粋な言語哲学への道をまっしぐらとなるのも当然なことだ。

デイヴィドソンの理論のすごいところは外延問題(または感覚問題)を一切放棄したところにあるのだが、この点こそがマクダウェルが経験概念についてデイヴィドソンと見解の分かれるところである。マクダウェルは、一方でセラーズの所与の神話批判を受け入れるが、他方でデイヴィドソンのように知覚できる経験を放棄することを拒否する。対応説のように感覚と概念を分けておきながら(概念なしで済ませられるかのように)混同することにも批判的だが、整合説のように感覚を捨て去って概念だけを残すことにも批判的だ。その結果としてマクダウェルが採用するのが知覚の概念的内容に関する説である。つまり知覚において感覚と概念は常に一緒であり分かつことはできないとした。この考え方の源はヘーゲルの「精神現象学」の意識の部にあると思われる。気づいたときには私たちは物事をすべからく概念として見ているのであり、私たちが物事を見ることは(概念の体系としての)世界観を見ることと同じ事であり、見ている世界観(概念の体系)はそれがすべてでありその外側などない(観念論!)。ヘーゲル主義者にとって知覚と思考は同等の扱いを受けることになるので、所与の神話は存在しない(すべての知覚経験は概念的内容を持っているのだから)。概念論者マクダウェルが強調するのは、概念は言語に関わる能力と結びついていることであり、言語によって概念化された知覚と思考は一つに結びついているのであり、その知覚と思考の結びついた全体が一つの世界観(理由の論理空間)と化しているのだ。

マクダウェル説の特徴を見るには同じく知覚の概念説を採用しているノエ説と比較すると分かりやすい。ノエはマクダウェルと同じ知覚概念説をとっているが、同時にドレイファスの身体論からも影響を受けていて、その結果として観念論を放棄せざるを得ないが、その帰結は単なるイイトコ獲りの一貫しない説となってしまっている。マクダウェルの知覚概念説によれば言語を持たない者は(人間のような)経験を持たないことになり、つまりは言語を使えない動物や赤ん坊は(人間のような)経験を持っていないことになる。人は言語を獲得することで反省する能力を身につけるが、反省ができなければ経験を持つ事もできない。確かにこの考え方には批判がありノエはこれを解消しようとしているが、ここにノエのご都合主義がある。マクダウェルが概念的能力(概念によって何かを行なう能力)によって経験の所有を切り分けているのに、ノエの考え方を採用すると人間も動物も概念を持っていることになるが、誰が何ができても概念が関わっていると言えるなら、概念の意味が広すぎて元々の意義が失われてしまう(ミジンコは概念を持っているのだろうか?)。マクダウェルとは異なり、ノエは言語に基準をおかないので、概念が含まれる範囲がいくらでも広くなってしまうのは明らかに欠点だ。

別の所でノエは感覚−運動的能力を概念的能力と同化してしまっているのも同じ傾向を示している。しかし、これでは概念によってて区別することと条件反射によって区別することの違いがなくなってしまう。ノエは動物や赤ん坊に関しては原概念なるものを持ち出しているが、引用元のパトナムは知覚概念説に対して中立的な立場からこの言葉を提唱しているので解決にはなっていない(概念的と原概念的の区別をどうつければいいんだ?)。知覚概念説への批判として、私たちは無限とも言えるほど豊かな色合いを知覚できるがその色合いのすべてを表わせるほどの概念はない、という批判がある。これに対しては、すべての色合いに対応する色名がある必要はなく、単にあの色とかこの色とか言うだけでも概念を行使していることになるとの(マクダウェルによる)解答がある。「この色とあの色は同じ色だ」と判断できることを考えるとこれぐらいは認めてもいいかもしれない。しかしあれとかこれとかさえ言えない場合にさえ当てはめてしまったら、文字通り何でもありになって反省的に反応しようが反射的に反応しようが概念的能力を行使できることになってしまう。こんなにもあれもこれもに概念を適用できるのなら、概念という言葉には意義がなくなってしまうように思う(少なくともマクダウェルと比べると相当に損なわれている)。ノエは様々な哲学説や常識的な直観からいいとこだけを継ぎはぎすることによって却ってダメにしてしまっている感がいなめない。

ちなみに、パトナムはマクダウェルから観念論を拭い取った上で常識的実在論(だいたいにおいて私たちの考えている通りに物事は存在する)を擁護しようとしているが、ウィリアム・ジェイムスと同じくマクダウェルは観念論を採用することによって常識的実在論を実現しているのであり、パトナムは観念論を偏見によって嫌いすぎている。マクダウェルの言うように、観念論は徹底させると実在論と区別がつかなくなるのであり、観念論を恐れる必要などない。

<付記>
後から調べてみたら、私がこの記事で書いたのと同じような内容が書かれている英語論文を見つけたので驚いた。これじゃまるで自分がその論文を見てこの記事を書いたかのようじゃないか。まぁ、ヘーゲルに関する記述はその論文の方が詳しいが(もちろんノエ批判もない)。てか、その論文はマクダウェルの解説よりもブランダムの解説の方が断トツに分量多いぞ。

The Analytic Neo-Hegelianism of John McDowell & Robert Brandom(PDF) http://www-personal.arts.usyd.edu.au/paureddi/Redding-Analytic_Hegelianism.pdf

2010年12月25日土曜日

人はいかにして神を認識するのか(トマス・アクィナス篇)

トマス・アクィナスには他の著名なスコラ哲学者とは異なる特徴がある。いわゆるスコラ哲学の論法は現代の分析哲学と同じで論理的な論証に多くを負っているが、それに比して、トマスは言語哲学的な側面が強く日常言語学派に考え方が近いところがある。存在の類比説はその典型的な例だ。被造物に対する「物がある」と創造者に対する「神がある」とでは「ある」の意味が異なるという考え方は、「体がある」と「心がある」では「ある」の意味が違うとするギルバート・ライルの考えとどことなく似ている。これは日常的な言語の分析から導かれるものであり、その点では常識を擁護するものである。普通に考えれば物と神が同じように存在すると考えるのは不自然だ。アクィナスは常識と信仰を同時に擁護する道を選ぶ。

確かに「ある」は多義的に使われるが、それは「はし」が橋や箸を意味するような単なる同名多義ではない。「ある」の表面的な多義性にも関わらずそこには共通性がある。「物がある」と「神がある」において存在は類比(アナロジー)的に語られる。ならば(「ある」の語りが似てるだけで)人は物は認識できるが神は認識できないのか。被造物の存在は神によって存在させられる(存在を分有する)のに対して、神はそれ自身によって存在する。被造物において(感覚できる)偶有性は(感覚できない)実体に依存することで存在しているのだが、人は偶有性の存在を認識することによって実体の存在を(類比的に)認識する。同じように、人は被造物の存在を認識することによって神の存在を(類比的に)認識できるのだ。こうして常識を擁護しながら議論を進めるトマスに比べるとドゥンスの議論は短絡的にさえ見える。

しかし、トマスは神と世界を同一視する汎神論者ではない(だったら異端である)のだから、「世界を認識すること=神を認識すること」ではない。ならばドゥンスとは異なりトマスは神の自然的な認識を否定していることにもなってしまうのか。しかし、だとしたら存在の類比説を擁護したのは何のためだったのだろうか。存在の類比説を前提にすると、被造物において成立する「何である」かは神においては適用できない。地上の我々は神に関して「何ではない」と否定的な述定によってしか認識できない。こうした神の否定的述定を行なう否定神学に対して、神の肯定的述定を可能にするのが超越的カテゴリーである。カテゴリー(例えば時間や場所や性質)は被造物に適用される存在論的な分類であるのに対して、神はそうした存在論的なカテゴリーを越えている。超越的カテゴリーとしては「一」「真」「善」がある。ここでの「一」は数えられる一とは全く異なるが、同じことは他の超越的カテゴリーにも言える(ちなみに「善」とは日本語の含意と違って目的に適うの意を持つ)。神とは一であり真であり善である。ただし、神の存在が物の存在とは類比的に異なるように、超越的カテゴリーにおいても同じことが言えるはずだ。

否定神学と超越的カテゴリーは神が「何である」かに関して矛盾していることを語っているようにも見える。だが、これらの議論が向かっているのは後にクザーヌスが無限論によって目指しているのと同じ方向であるように思える。その点を考慮すると、トマス・アクィナスが所属していたドミニコ会から異端的とされるエックハルトやブルーノが現れたのは実は故なきことではないかもしれない。

2010年12月18日土曜日

人はいかにして神を認識するのか(ドゥンス・スコトゥス篇)

中世哲学において直観認識とは感覚によって認識することであり抽象認識とは知性によって認識することである。聖書によれば人(被造的知性)は死後に神の直視(至福直観)ができるはずだが、死後は肉体が失われるので感覚によって神をそこにあるものとして認識すること(地上的な直観認識)はできない。だからといって抽象認識によって認識できるとしたら、知性は存在しないものを認識することができるので、そこには存在しない神を認識できるという議論になっておかしなことになる(死後なのに神に会えないのかよ!)。よって、ドゥンス・スコトゥスはトマス説である「感覚は個物を認識し、知性は普遍を認識する」という考え方を批判し、人は死後に神をそこにあるものとして(つまりは直観認識によって)認識できるとした(神は地上的な個物と一緒じゃねぇ!という突っ込みはとりあえず脇に置く)。このような形での神認識(至福直観)とは超自然的な認識であり、神による意志によって起こる認識という意味で意志的な認識とも呼ばれる(至福認識が死後だけに可能なのか?生前に神秘体験を介してそのような体験が可能か?はここでは問わない)。

これに対して、地上で人が知性によって神を認識することが可能かは神の自然的認識に関する問題である。人が知ることができるのが単に被造物だけであったら神を認識することは不可能である。しかし、もし神が被造物と共通する存在であったのならば、人は神を(自然を通して)知ることができることになる。トマス・アクィナスによれば、「神がある」では「物がある」における「ある」がアナロジーとして使われているのであって、「ある」(存在)の意味こはの二つの命題では異なる。これが有名なトマスの存在の類比説であるが、これでは地上で人は(自然的には)神について知ることが全くできないことになる。よって、ドゥンス・スコトゥスはこの説を批判して存在の一義説を提出した。被造物は感覚できて神は感覚できないのに神を認識することはできるはずという議論を展開する上で、ドゥンスはアリストテレスによる偶有性と実体の対比を用いている(ちなみにここでの偶有性は英語でaccidentの定訳でありcontingencyとは異なる)。偶有性とは物が偶然に持っている性質であり感覚を介して知ることができる。例えば髪の毛にとって黒であるか赤であるか白であるかはたまたまそうであるだけの偶有性である(ちなみにこれが普遍の理解に関わる)。実体とはそのような変化を被らないものであり、直接に知ることができない点でカントの物自体に似ている。しかし、ドゥンスの影響を受けたパースがカントの物自体を絶対に知ることができない点で批判しているように、絶対に知ることができない実体を想定することには問題がある。だからドゥンスは偶有性と実体は共通する存在を持っていることによってどちらも知ることができるとした。この議論は被造物と神にも当てはまり、感覚できる偶有性や被造物を介して感覚できない実体や神を知ることできるという議論構成になっている(私にもよく分からないので、実体も被造物じゃねぇのかよ!という質問は受け付けない)。

2010年12月8日水曜日

近代社会のシステムを進化システムとのアナロジーで考える(途中経過)

近代社会のシステムを進化システムとのアナロジーで考えている(てか途中まで論考を書いた)のだけれど、哲学や思想を参照して経済・科学・法律・政治が候補として挙げてみたが、考えいくうちに政治にこれを当てはめるのに困難があるような気がしてきた(それに付随して法的システムは司法に限定すべきか立法まで含むべきかの問題も浮上してきた。ちなみに想定される参照文献はワルラスやポパーやハートやロールズなどが代表で、あとの関連文献はそこから芋づる的に探れるはず)。
淘汰に当たるのが科学での相互評価とか経済での売買競争とか法律での裁判などで、それは(経済学におけるように)均衡システムとして表現できる。だが、現実には均衡システムに様々な制約が加わり、一般的には物理的制約やシステム間の制約関係(例えば科学における資金)があるが、具体的には例えば経済システムにおける情報の非対称性が挙げられる。そうした制約によって均衡へと至る道筋も変わっていく。進化には遺伝子のような伝達と淘汰の単位(メディア)が必要で、遺伝子型が表現型となって淘汰の対象となる(伝達と淘汰の単位についてはベイトソン「精神と自然」第六章も参照)。科学では真理、経済では貨幣、法律では合法性によって、そのシステムでの淘汰対象が残ったり除外されたりする。
細かい考察はまだまだこれからだが、大雑把には進化システムとの比較による考察は役に立ちそうな気がするが、政治に関しては当初の考えていたよりもそれが難しいと思うようになってきた(政治を広くとるべきか狭くとるべきかさえよく分からない)。例えば、政治が各種の社会的システムに強い影響(制約)を与えることはできるがそれでもそれらのシステムの自律性(伝達と淘汰の単位を関連している)は守られる。だが、政治システムには他の社会的システムと比類できるような自律性を持っているのかは考えてるとよく分からないし、かといって他のあまり自律的でないシステム(例えば行政や教育)と同じとも思えない。
……考えている内によく分からなくなってきて記事として完結できないが、どうせメモ用ブログだから構わんな、別に。

ちなみに、途中まで書きかけて行き詰まったテキストがこちら。書いていること間の矛盾や非一貫性を調停なり修正なりできなかったので本来はボツであり、実際に書きかけの段落があるのだが、それを承知の上で読んでください。

没テキスト↓

社会的なシステムについて考える上で、生命的なシステムとのアナロジー(類似による比較)で考えると様々な整理がつく(ただしオートポーエーシス概念は曖昧なので用いない)。生命的なシステムには大きく分けて生物システムと進化システムがある(生態システムはこれらを結びつけるものだが話を簡単にするために無視する)。生物システムとは個々の生物の体を成り立たせているミクロなシステムであり、進化システムとは生物同士が関係しあっている自然淘汰が起こるマクロなシステムである。進化システムにとって生物システムは要素になっており、生物を成り立たせている遺伝子を進化が淘汰することになる(淘汰の単位の議論はとりあえず度外視するが、後の用語では遺伝子とはメディアである)。社会的システムもこれと同じような分け方ができる。例えばこの分類では、経済システムはマクロなシステムであり、個々の買い手や売り手はその要素としてのミクロなシステムである(経済学の用語におけるミクロ−マクロとは意味が異なるので注意)。しかし、この程度の分類法はよく見かけるものであり、社会的なシステムを考える上での出発点に立ったに過ぎない。
生命的なシステムの特徴は自律的であることである。自律的であるとはいかなることか。
社会的なシステムを自律性の点から眺めると、経済や政治や司法や科学がその候補としてあげられる(経済学はもとより政治哲学や法哲学や科学哲学を参照すべし)。家族や会社などの組織はそうしたマクロなシステムの要素である。マクロなソステムとされるもののすべてが自律的システムではない。ここでいう自律的システムの典型なモデルは進化システムである。自律的システムの特徴としては、開かれていること・要素の相互的な関係・淘汰による均衡状態への移行が挙げられる。開かれたシステムとはその要素が任意に入れ替わりうることである。進化システムではその要素である生物個体は淘汰と生殖によって随時入れ替わる。経済システムではその要素である経済主体(売り手や買い手)は淘汰や参入によって随時入れ替わりうる。もし要素が入れ替わりえないならば、そのシステムは閉じたものである(新しい売り手も買い手も現れないで、常に同じメンバーである)。
要素が相互的であるとは、要素間の関係が一方的な支配的関係だけではないことである。もし進化で一方的な支配的関係しかなかったら、強者が弱者を駆逐して強者だけになってしまうが、そうすると弱者を食料とする強者は生き延びることができなくなる。どんな経済主体も売り手にも買い手にもなりうるのであり、商品の売り手も資材の買い手であり、単なる消費者に見えても労働の売り手であったりする。
進化システムとは様々な生物が関係しあいなが(遺伝子の)伝達と淘汰が起きる過程である。経済システムは様々な経済主体が関係しあいながら(貨幣による)伝達と(市場による)淘汰が起きる過程である。伝達を媒介する遺伝子や貨幣はそのシステムのメディアであり、第三者的には遺伝子や貨幣の獲得がそのシステムの目的に見える(ただし目的をもった主体は必要なくて結果としてそう見えるだけでよい)。淘汰はパラダイムを維持するものも破壊するものもどちらもありうる。
科学システムには研究者間の相互評価の仕組みがあり、司法システムには法律家間の法解釈を巡る合法性の争いがあり、政治システムには…(??)
科学システムや司法システムには専門知識を持った人だけが正式に参加できる(ハードルが高い)仕組みがあるが、政治システムや経済システムにはそうした専門性…(ない?)
行政や教育は自律的システムではない。つまり、システムの内側で(相互的な評価による)淘汰が起こらない(起これない)のであり、これらのシステムの暴走はシステムの外側からしか止められない(ひどい教師や役人を外す自浄的な仕組みはない。ちなみに、教育は狭く学校で捉えてもダメだが、広くとろうすると単なる学習と同じになって広くなりすぎてしまう)。非人道的なひどい経営者は経済システムの側からは始めから淘汰の対象ではなく(そういうのは法的または政治的に何とかするしかない)、重要なのは淘汰の単位がないことである。淘汰の単位こそがシステムの自律性を成立させる。

2010年12月1日水曜日

分析哲学的な形而上学と大陸哲学的な形而上学について考える

フッサールによる静態的現象学と発生的現象学の分類はとても便利だ。分析哲学の形而上学の分析は静態的現象学と同じであり、大陸哲学の形而上学の分析は発生的現象学と同じだ。
大陸哲学における発生的現象学的な傾向ってのは深淵さと不毛さが紙一重で、私としては素直には支持しがたい。例えば他者論や対話論ってのはこの方面と議論構成が同じなのだが、日本でのこのタイプの議論には安易なものも多く、他者や対話なら何でもいいのかよバ〜カ!と言いたくなるぐらいに何も考えてない論もよく見る(二人以上で話してるからダイアローグだ万歳!って何人で話そうが一定の枠組みを出ない予定調和な対話だったらそんなの独り言と変わんねぇよ。後はデヴイヴィドソンぐらい読んで勉強しろ!としか言えない)。そこまで程度が低くないにしても、それでも日本で見かけるそうした議論は物足りなさを感じる。私の印象ではその原因は、そうした議論の根底にある考え方である啓示が理解されていないことにあると思う。「対話の哲学」は対話論や他者論としてはよくできた著作ではあるけれど、どことなく不満を感じてしまう。その原因は(コーヘンが言及しているにも関わらず)啓示の側面を追い出してしまおうとしているからだと思う(特に最終章でユダヤ性を薄めようとしている点で顕著)。対話論や他者論では啓示をもたらす神が重要な役割を果たしているのだけど、その視点が欠落してしまいがちだ。(ハイデガーから現代思想の流れに発生的現象学的な傾向があるが、「ハイデガー『存在と時間』の構築」で日本的自然観に近づけて論じている辺りを見ても、日本では啓示の考えは考慮されないのだなと感じる。否定神学と啓示の関連に関してはここではパス)。対話論や他者論は内在と超越が混在しあったところに深淵さ(と不毛さ)があるのに、日本ではそこにさえたどり着けない(着ける背景がない)のだから、現代思想なんて単なる無駄な贅沢品だなと思う。発生的現象学にはこうした現代思想寄りの話だけでなく、認知科学寄りの話(身体論や生活世界論)もあるのだが、それはここではしない。
静態的現象学ってのはスコラ哲学的な議論であり、まさに分析的形而上学とぴったり話が重なる。実際に「論理学研究」のスペキエスやメレオロジーなど、分析哲学で言及される議論も多い。分析哲学における普遍論争についてははてなハイクで既に書いたので省略する(いずれ記事にまとめるかも)として、ここでは分析的形而上学の発生的現象学との関係だけに触れる。分析的形而上学はスコラ哲学と同じく、テクニカルな議論が多いせいか(議論が生産的な反面で)浅く見られやすく、実際に分析的形而上学は表面的な理解しかしていない人もよく見る。大陸哲学と違って深淵さが表に現れるのでなく裏に隠れているせいだが、その説明も省く(これもはてなハイクで触れたことがあるが、スコラ哲学にとっての新プラトン主義の位置と似ている)。しかし、実は分析的形而上学の中でも特に反実在論は発生的現象学の考え方に近いところにいる。発生的現象学の方面ではフッサールやハイデガーを見れば分かるが、時間論が重要な議論である。その点から考えると、グッドマンの投射論やダメットの過去論など(意味の発生の視点から)発生的現象学と関連付けることもできるだろう(ちなみに解釈学や解釈主義は分析系でも大陸系でも独立して現れたことも重要だが、この点はまだ話が整理できてないのでパスしておくが、それを関連付ける鍵がありそうだ)。
とはいえ、静態的現象学と発生的現象学の関係は議論されることがほとんどないし、実のところ片方しか理解できない人の方が多い(類比的には、カントとヘーゲルとを両方とも理解できる人がめったにいないことと似ている。ハイデガーとカルナップが互いに相手を形而上学呼ばわりの悪口を言い合っていたことを思い出しても良い。インド哲学での知識論と自我論の対立も似ているかもしれない)。だとすれば、それらを共に扱えたフッサールがいかにすごい哲学者だったのかということを実感しない訳にもいかない。

2010年11月22日月曜日

最近は世界観に興味が移っている

ディルタイの世界観学(世界観と精神の関係を問う)と無関係ではないが、特定の具体的な世界観を問う(それは人文学者や社会科学の仕事だ)というよりも、そもそも世界観とは何かを問うところから始めなければならない。
科学的世界観は厳密さを採用するために全体性を犠牲にせざるをえない(限定された妥当性しか持たない)が、日常的世界観では全体性を獲得するために現実への妥当性が低くなることはよくあることだ。これらは科学的世界観と日常的世界観の目的が違うからであって、必ずしも欠点ではない。
日常的世界観が全体性を必要とするのはそれが生き方と結びついているためであり、科学的な考え方を日常的世界観に転用することは、真なることを求める科学的世界観とは区別すべきである。科学的世界観は真なる知識が倫理や宗教と分離し始めた近代による発明であり、人生のそれとの調停はむしろ課題である
西洋の哲学説は、古代では倫理と結びつき、中世では宗教と結びついていた。ストア派であれエピクロス派であれピュロン主義であれ、その自然学説は倫理(生き方)と結びついていた。中世では(神学ほどでないにしても)哲学は護教論的な要素も持っていた。倫理学が独立したのは近代以降のことだ
インドの哲学は特に知識論(論理学含む)と自我論(世界論含む)が重要視されていたが、それは宗教的な解脱と結びついていたからだ。真理を知ることや自我を修めることが解脱につながる。中観派の懐疑主義(ピュロン)的な議論も解脱と結びついている。こうした点は西洋の古代哲学に近く、近代的な真理概念をそのまま当てはめるべきでない(フーコーも参照)

世界観といっても、ディルタイが言っているような(特にテキストで)表現された世界観もあるが、それとは別に、どんな人もすべからく持ってしまうような意味での世界観もあって、そっちは私の元々の関心に近い。前者(人文学的世界観?)は全面的に(主に文字で)表現されているがそれが現実に妥当するかは別の問題だ(例えば神話や宗教は世界観だが現実に隈なく当てはまるのか?)。後者はその人が表現している世界観が問題になりそうだが、そもそもその人の言ってる事とやってる事とが合っていない場合もあって、そこまで考えないと前者と区別がつかない。その人が言ってる事とやっている事とが合っていなければ、その人は非合理であるとか不誠実であるとか信用できないとか狂人であるとされる(で以後そのような目で見られる)。その点で、人は言ってる事とやってる事がそれほどかけ離れないように世界観を持つことになる。ただし、意識して言ってる事とやってる事を完全に一貫させることができることを意味している訳ではない(そんな人がいたらむしろ狂っている)。言ってる事が現実に妥当するかどうかは、それが現実と対応しているか(対応説)やそれが行動の指針になっているか(規範説)が問題になる。言ってる事が首尾一貫しているだけ(整合説)では単なるお話でしかない(てかこれは世界観の話で認識論の話じゃないっての)。

2010年11月10日水曜日

学生時代にまずは教育社会学に夢中になり、認知科学の発見はその後

部屋の押入れを漁っていたら、学生時代に教育系の研究会で読んだ論文のコピー(エスノメソドロジーの論文)が出てきて、目についたその引用部分が今読むとかえって面白かったので以下に引用する。

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我々の課題は、推論を実行できる機械、そして私が主張したような強い意味で推論を実行できる機械を単に作り出そうとすることにあるのではない。社会化を記述することに興味を持っている社会学の大部分は、どのように人間は、以下のような意味で他者に理解可能なように自らの活動を生み出すように形成されるのかという点にある。つまり、どのようにして彼が、これら一連の事態を推論する機械が彼のしようとすることを発見できるような方法で行動するようになるのかということである(Sacks 1985, p.20)
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→清矢良祟「社会化、言説、文化」教育社会学研究第54集(1994)のp.11より孫引き

>>
ある文化のどのような成員も、幼児期のころから文化の非常に狭い部分を、そして恐らく行き当たりばったりに体験しているように思われるのに、(彼らがたまたま持つことになった両親や、彼らがたまたま体験すること、あるいは、たまたま彼らに向けられることになる発話に含まれている語彙など)、他の成員と多くの点でほとんど同じように振る舞う人に成長し、どのような成員とも関わりが持てるようになるのである。成員が社会の中でやっていける人間に成長することを確実にするために、彼らに対して、経験の適切なサンプル構成を提供することが重要なことであるとすれば、一つの文化は、それを経験する成員にとってそのように配置されているとしてもおかしくはないだろう。そしてもちろん、それを研究する場合も同じ資源を対象とすることになる。だから、どのような人、そしてどのような場所であっても、こつこつとたたいて、そこには入り込んでみよ。そうすれば同じ文化的秩序をみることができるだろう、ということになる(Sacks 1984, p.22)
<<
→清矢良祟「社会化、言説、文化」教育社会学研究第54集(1994)のp.19-20より孫引き

前半の引用部分からはサッチマンと違って機械に対してそれほど否定的でないところが興味深い。たまに見られるエスノメソドロジーは反認知科学みたいな考えは偏見だということがこれを読むとよく分かる。サックスが心を推測する推論機械だけでなく、逆に心を推論させる活動機械を提案しているのは本当に面白い。それから、サッチマンが批判したのは主に強い人工知能であって、その後に現れたコネクショニズムやサブサンプションには実は好意的であるのだが、そういう点からも後半の引用部分は興味深い。この短い引用部分だけでも、文化の学習の点からも環境としての文化の点からも読めてしまうところは素晴らしい。
これからは様々な意味での生物学化(20世紀初頭から始まった物理学化と比較せよ)はもはや避けられないだろうけど、生物学者の社会性概念の貧しさにうんざりする時がある一方で、社会科学者の生命科学への認識の甘さ(過剰な期待と拒否)にあきれることもある中で、こういう文章を読むとちょっとほっとする(一時的な気休めなんだろうけど…)。